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妄想 2006/01/10
公式サイト、香取くんの写真がいっさいないのは大人の事情?

きのうから『西遊記』が始まった。
ぼくは、いわゆるテレビドラマというモノをほとんど見ない人間なのだが、モチーフが『西遊記』となると話は別である。
ぼくは『西遊記』がとても好きなのだ。もちろん、これまで日テレがドラマ化してきたものもチェックしてきている。
特に今回は、日テレではなくフジによるドラマ化なので、これまでのものとどういう解釈の違いがあるのか、そのあたりにも興味があって見てみることにした。

が、ぶっちゃけ微妙なデキだ。世間では新ドラの中では期待度ナンバーワンとかいう声もあるらしいが、初回を見たかぎりでは「?」がつく。
これまでの日テレ版は、それぞれにアレンジはされているものの、基本的には原作版を下敷きにしているので、おおむね、悟空が華果山で誕生したところから大閙天宮のエピソードをへて、500年間封印されたのちに三蔵と出会って旅立つ、という流れを踏んでいる。
ところが、今回のフジ版にはそれがない。
悟空が500年間封印されていたことは描かれるが、とりあえず一行の出会いのシーンはあらかたスッ飛ばし、いきなり三蔵主従が4人揃った状態でドラマがスタートしてしまう。おそらく、「初回にメインキャストが揃っていない」という状況を避け、第2話以降で少しずつ語っていくという形になるのだろう。
悟浄が混世魔王(原作では仙人修行を終えた悟空に一番最初にまっぷたつにされる三流魔王)の元部下だったり、八戒がイノシシの群れの中に1匹だけ混じっていじめられてきたブタだったり、このドラマならではのオリジナルの部分があるので、そのへんを絡めて三蔵との出会いを描いていくのだと思う。
が、それにしたところで、悟空の破門ネタを第1回で使ってしまうとは思い切ったことをするものである。

確かに原作でも、三蔵一行はちょくちょく敵妖怪の離間の計にかかる。それが敵の計略だと気づかないのはお人好しの三蔵だけで、悟空はつねにそれを見抜いているのだが、なぜか三蔵はもっとも頼りになるはずの一番弟子の言葉を信じず、善良な人間に化けた妖怪や刹那主義の八戒の言葉ばかり信じて、何度も同じような手に引っかかってピンチにおちいる。原作の三蔵は、目標だけは高いが行動力にとぼしい、勇気も洞察力も意気地もない上に不公平な、現実の玄奘三蔵とは似ても似つかないダメ人間だ。
それでも、三蔵が(ほとんど一方的な誤解から)悟空と対立して彼を破門までしてしまうのは、あの長い原作の中だけでもただの1回しかない。
それをこのドラマでは、各キャラクターの背景のようなものをロクに描けていない第1回で、いきなり景気よく使ってしまった(ついでに金角&銀角と並んで知名度が高いであろう牛魔王もいきなり登場、そして退場)。
本当なら、ふたりがあまり馴染んでいない状態から旅をスタートさせて、幾多の試練を乗り越えるうちに親密度が上昇し、ぎくしゃくしたところがなくなって本当の主従になった――と思ったら、今回のように誤解から三蔵が悟空を破門→ふたりとも自分を見つめ直す→和解→さらに深まる主従の絆、といくのがスジではないのだろうか?
それをこんな冒頭で使ってしまって、この先、三蔵と悟空の間のドラマをどうやって盛り上げていくつもりなのか。もうこのふたりには触れないつもりなのか、あるいはラストではもうひと悶着あった末に、三蔵に悟空は弟子ではなくて仲間だといわせてエンド、とかだろうか。

まだ始まったばかりの作品だし、最後まで見てみないことには何ともいえないのだが、とりあえず、ハイビジョン撮影に耐えないチープすぎるセットとお粗末なアクションはどうにかしてもらいたい。
それと、妖怪に捕らえられた三蔵は、絶対に縄で縛られていなければダメだ。

ところで、冒頭に出てきたキムタクは結局何だったのだろう?
あの幻翼大王とかいうのがラスボスということはありえなさそうだが、もしかして彼の出番はあれだけなのだろうか? わざわざ竹田団吾に衣装まで作ってもらったのにもったいない。